65歳ですが、年金だけでは・・・

65歳の高齢者ですが、年金だけでは食べて行けないのでお金稼ぎをしています。でも、それが楽しいわけです。

アンアン

1970年(昭和45年)、大阪で万国博覧会が開催された年、その年の3月3日、桃の節句の日に、新しい女性雑誌「アンアン」が創刊されました。

芸能雑誌の「平凡」や若い男性向け雑誌「平凡パンチ」を発行していた平凡出版社(現、マガジンハウス)が、新しい女性向けの雑誌を創刊しました。

日本で初めて、月に2回発行する、大判で一冊まるごとグラビアの女性向け雑誌の誕生でした。

 

1969年頃の日本には、一冊まるごとグラビアで、外国のグラビア雑誌と同じような大判のグラビア雑誌を印刷する機械が存在しなかったそうです。

で、千代田グラビアという印刷会社が、大判で一冊まるごとグラビア雑誌の印刷発行に対応できる印刷機械を輸入することで、「アンアン」の創刊が可能になったと伝えられています。

 

「アンアン」1970 (平凡社新書 358)

「アンアン」1970 (平凡社新書 358)

 

 

1969年の晩秋、「臨時増刊・平凡パンチ女性版」という雑誌が書店に置かれていました。

「アンアン」創刊に先立つテスト雑誌だったわけですが、この雑誌の特集記事「急募!新女性誌スタッフ」と綴じ込み附録の「応募書」が話題になっていたのを覚えています。

 

この「新女性誌スタッフ募集」に応募してきた人たちの話題を、当時、読売新聞社が発行していた週刊誌、週刊読売が特集しています。1970年の1月か2月のことだったと思います。

相当にユニーク、個性的な人たちがスタッフ募集に応募してきたみたいです。

週刊読売の特集記事で、平凡出版社の社員の収入のすごさと待遇の良さを知って、こういう会社に就職できれば最高だろうと、うらやましさを感じた記憶が残っています。

 

週末はスポーツカーに乗って会社保有の箱根の保養所に繰り出して、そこで皆でパーティーを楽しんでいると記事に載っていたわけですから、1970年当時の若者にとっては、夢のまた夢の世界に存在する会社だったわけです。

1969年の晩秋に発行された「臨時増刊・平凡パンチ女性版」では、新女性誌のスタッフ募集にプラスして、「この春に創刊する新女性誌の誌名」も懸賞金30万円で募集されていました。

 

誌名募集の結果は、1970年1月発行の「臨時増刊・平凡パンチ女性版」で発表されました。

秋田県湯沢市の女子高校生考案の「アンアン」が、誌名として採用されたと報道されていました。

50音の最初の「あ」と最後の「ん」を重ね合わせて、「アンアン」としたとのことです。

 

1970年の3月3日に創刊した「アンアン」ですが、3年近くの低迷・会社のお荷物状態を経て後、平凡出版社の経営の中心を担う人気雑誌に変身していったそうです。

「アンアン」創刊から1年が経過して、同系統の女性誌「ノンノ」が集英社から創刊されます。

そして、1970年代の中ごろになると、「アンアン」や「ノンノ」を小脇にかかえた若い女性が街で目立つようになってきます。『アン・ノン族』の誕生です。

 

その『アン・ノン族』が、女性ファツションの世界や旅行の世界を変えてしまいました。

1970年には話題にもならなかった「アパレル」という言葉ですが、1970年代の中頃ともなると、至る所に「アパレル」という言葉が溢れていました。

 

an・an (アン・アン) ELLE JAPON 1973年 8/20号 夏休みのための<する>百科事典

an・an (アン・アン) ELLE JAPON 1973年 8/20号 夏休みのための<する>百科事典

 

 

女性ファッションの世界ですが、『アン・ノン族』が登場して、洋裁から既製服へと変っていきました。

1970年代の中頃、街中では、「アパレル」や「マンションメーカー」という言葉が溢れていたわけです。

その代わり、街中から洋裁店が静かに姿を消して行ったのだと思います。

 

旅行の世界も、『アン・ノン族』の出現で、大きく変ってしまいました。

京都や金沢などの古都や地方のひなびた温泉地に、若い女性が大挙してやって来るようになりました。

団体客・宴会客相手の旅館やホテルのままでは、『アン・ノン族』に見向きもされないということで、『アン・ノン族』向けに改装する旅館やホテルが続出したそうです。